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αの本能だろうか。リビングで「さあ、脱いで」と言う台詞を口にするとき、Nは暖かい波のような高揚を覚える。うねりは穏やかに浜辺へ打ち寄せ、そのまま静かに引く。Cが黙ってその言葉へ従い、きちんとアイロン掛けされたシャツのボタンを外せば、微かに泡立っていた欲情は薄まり、充足へと変わって胸を満たした。
下半身はスラックスを身につけたままにさせる。日に焼けないCの上半身は明るい昼の光の中で、練ったばかりのクリームを思わせる色にほのぼの輝く。肉付きは薄いけれど肩幅は広く、男の骨組であることを忘れさせない、最後の一線で不安を払拭する身体だった。まだ彼がNの講義に出席していた数年前から、加齢を一切感じさせない。
あの頃は、こうして触れる事など考えもつかなかった。テーブルに乗せていた荒縄を手に取り、青年に歩み寄りながらも、Nの思考は薄い現実感の中をたゆたっていた。当時はまだNには妻がいて、Cにも恐らく……学生という立場は教授の私生活を知ることより、その逆の方が案外難しい。公職とはよく言ったものだ。今でもCは、自らの父親と変わらない年の男へ、広場の銅像にでも向けるような視線を投げかける。
一時期はインターネットで調べたりしたのだが、煩雑な技法に嫌気がさし、今では手順も適当に行われている。二の腕から鎖骨の下を通る一巡に始まり、絡げられていく縄に、Cは僅かに背を反らした。羞恥に頬が熱を帯びる。伏せられていた瞼は、Nの無骨な手が視界でちらつくたび、痙攣じみた動きで瞬いた。
「苦しくはないかね」
「はい」
唾液を飲み込んだのか、返事は一拍遅れて返される。それはセックスの最中に同じ問いを投げかけた際、快楽で切れ切れになった声が寄越すものを簡単に想起させる。本人もそう考えたのだろう。微かに顔が逸らされた。
稚拙な結わえ方でも、三重、四重と巻き付けられれば十分に拘束の役割を果たす。正面から背後に移り、結び玉を作る。縄を引く腕に一際力を込めたら、僅かに息が詰められる。
「痛かった?」
「締めるのは平気、ですけど。擦れて少し……」
「ああ」
素材そのものへのアレルギー反応ではないはずだが、ちくちくした荒縄は肌に赤い跡を残す。時には擦り剥けることもあって、そのたびCは嫌そうな顔を隠しもせず患部にクリームを塗っていた。「最近はこれも手に入りにくいんですから」などと腐しているのを聞けば、寧ろNはこのご時世に、化粧品会社が製造ラインを停止していないことに驚きを覚える。フランスかどこかで製造されて、それからこの国に運ぶのは船だろうか?
この世界はもう、壊れてしまったのだと思い込んでいた。それは概念の話だ。しぶとく生きている。胸の中でちりちりと焦燥がくすぶるのは、カウントダウンが恐ろしいからだ。生存欲求、維持欲求。その為の破壊衝動。
触れた掌に、Cの肩が強張る。それが逃げようとしている動きに思えて、Nはぎゅっと強く握りしめた。
薄い耳朶に差す赤みは、さながら肌の下で焚かれる炭の赤が、身体の末端にまで行き届いたかのよう。触れたい誘惑に駆られた。その先の、俯くことで晒される、すっきりとした項にも。
身を屈める気配に、噛まれると思ったのだろう。だがCは逃げなかった。沈黙が、まるで引き絞った縄の如く、ぴんと張り詰める。
眉間へ皺を寄せて、Nは姿勢を戻した。
「これでいい。そのまま横に」
と言うのが無理な話であるとすぐに分かったので、手を貸してやる。クッションとラグマットで整えた場所に横たわらせた時、Cは眼を閉じていた。仏像を思わせる静謐さは、心を閉ざした証だ。顔を覆う髪を手で払ってやろうとしたが、少し考えてからそのままにしておく。まだ全身の輪郭を捉えることすらおぼつかないと言うのに、顔の造形なんかとても手が回らない。
これなら林檎でもモデルにしたところで、同じかもしれない。けれど、彼を用いるようになってから、取り組む頻度が増えたことも事実なのだ。
恐らく今日も、まともなものは描けやしないだろう。今のところ、進歩はなかった。
数歩離れた位置に置いた椅子へ腰掛け、スケッチブックと鉛筆を取り上げながら、Nは内心嘆息した。力なく投げ出された脚から模写し始めるが、早速線の角度が歪んでいるように思える。しょせんは教室にも通ったことがない、素人の趣味なのだ。
「完成したら見せて下さいね」
落胆と裏腹、眠り込む寸前のように優しい声でCは言った。これは常套句で、別にそこまで興味を持っている訳ではない。二時間ほどして解放されたら、気まぐれでスケッチブックを覗き込む事もあるし、そのままさっさと立ち去ることもある。
だからNも特に深く考えず「ああ」と頷く。先ほど触れた瑞々しい肌の感触が、画用紙のざらつきへ取って代わられるまで、もうしばらく時間がかかるだろう。それまでに後何本、ためらい線が引かれることか考えると、早くもうんざりしてしまいそうだった。
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